まず、絵画の世界に例えてみる。
ちょっと想像して頂きたいのですが、 例えば19世紀末のフランスで、画家になろうと決意したある青年が、 「よし、俺は印象派の画家になるぞ!」とか、 「シュールレアリズムの絵をガンガン描くぞ!!」と、 具体的に思うでしょうか?
まず、その青年は絵を書き始めた時、「絵を描くことが大好きで、ちょっと才能もありそうだったから『とにかく絵描きになりたい』」と純粋に思っていた筈です。その後、画家としてのキャリアを積んでいく中で、いろいろな人々や場所や事柄に出会って、影響を受けた結果『印象派の画風になっていった』り、『シュールレアリズムの絵を描くようになっていった』と考えるのが自然ですよね。(コンクールに入選して広くその存在が認められる事は、その人のキャリアの過程の一部であって、決して目的ではなかったと思います。)
美術館に行くとそのキャリアの過程が良く分かります。どの画家さんも、駆け出しの頃の作品を見ると、確かに絵は巧いし才能の片りんを感じるけれど、まだどこにも属していませんし、何者でもありません。例えばゴッホは、あの私達が認識する『ゴッホ』になる前の作品が存在するのです。
つまり、 絵描きさん達は「絵を書いていくうちに、しだいに○○派に傾倒していった」のであって、最初から「○○派の画家」と呼ばれたいと思っていたり、「○○派」の仲間に入れてもらうのを目的として絵を描いていたのではない、ということなのです。
歌を歌い続けていたら、その当時のムーブメントの渦中に…。
歌手の世界でも全く同じ事が言えると思います。
ビリー・ホリデイを始めとする歌手達もきっかけは「何よりも歌うことが好きだった(本当は「歌うことでしか生きていけなかった」ですが)」から芸を磨いてプロ歌手となったのであって、いきなり「ジャズ」という枠組みにハマる歌を歌うのを追求していたわけではなかったはずです。因みにサラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドは、ジャズ衰退後の時代のニーズに対応して、ポップスも平気で歌いこなしていました。
当時はたまたま時代の風潮としてジャズというジャンルが台頭し、仕事場で傍らにいるジャズミュージシャンから多大な影響を受けたりして「ジャズ歌手になっていった」、「ジャズ歌手だと認知されていった」というのが、自然の流れだったのだと思います。
そもそも当時だったら、皆がそのムーブメントの渦中にいるわけで『何がジャズなのか』さえ、誰も厳密に定義できる人はいなかった筈です(今だってそうです)。
こんな話もあります。ボサノバギタリスト&シンガーのジョアン・ジルベルトは『ボサノバ』スタイルを創った人として有名なのですが、彼曰く「『ボサノバ』って何?僕の歌っているのはサンバだよ」といった具合です。ボサノバを創ったとされる張本人が、ボサノバが何なのかよく分かっていないということだってあるのです。
そう考えると、絵描きさん達が「今ボクが描いてる作品って、100年後にどこかの美術館で【印象派の画家展】に出品されるんだよね~♫」なんて思いながら描いていたはずはありませんし、歌手にしても「私のレコードは、50年後にタワレコの【ジャズコーナー】に陳列されるのよね~♫」なんて思いながら歌っている人もいなかったはずです。
カテゴリー分けは後世の歴史家や批評家によって便宜的になされたものなのですね。
『…っぽさ』より、『そのもの』に近づいていくこと。
さあ、ここから、ジャズボーカルを勉強中の私達は何を学ぶべきか?ということですが、まず言えるのは、当時の画家や歌手の気持ちになってみることだと思います。自分の『絵を描きたい』、『歌いたい』、『とにかく表現したい』という最初のピュアな気持ちを大事にして、最初から○○派やジャズっぽさという枠組みに自分をあてはめにいくことを考えなくて良い、と申し上げたいのです。
「これをやると○○派っぽくない」、「○○っぽくするためには、こうするべき」などと、ルールばかりを追い求めてしまうと、他の誰かと同じことが出来ていないとつい不安になってしまうのです。それらが出来る、出来ない、だけがその人の歌を判定する基準になるなんて、とても残念なことです。昨今の音楽業界でも同じことが起きていると思いませんか?しかし、商業的成果を気にする必要のないアマチュア愛好家の皆さんがそれにもれなく追随する必要がどこにあるのでしょうね?
私達がジャズを歌ったり演奏し続ける目的は『…っぽさ』の追求ではなく、『ジャズそのもの』に近づいていくことです。
だから、ジャズボーカルをお勉強している皆さまに於いては、『ジャズっぽい』歌い方になっているかを気にする前に、まず自分が、自分の声で歌うその瞬間を心の底から楽しめているか、そして、その歌が自分の声で『音楽』として美しく表現されているかどうか?を、考えてほしいのです。更に言うと『ジャズそのもの』であるか?ということは、『どの瞬間も、常に自分自身であるかどうか?そこに嘘がないだろうか?』ということかもしれません。
ちょっと難しくなっちゃいましたが、それこそが歴代の個性豊かなジャズ歌手やミュージシャンが歩んできた『ジャズ』の軌跡をたどることになる筈です。皆さんは趣味とはいえ、たまたまスタンダード曲やジャズという即興演奏の形態を用いて『芸術』をしていることになるのですね(決して運動やサーカスでありません)。
一方、ルール全般は、そういった音楽的美意識の後に付いてくるものであって、決して先に立つものではないと思います。また、そういったルールは、今を生きるジャズを愛するジャズ周辺の人々、今のムーブメントを作っている人々(国内外のジャズボーカリスト、ベテランから若手までのミュージシャン、ライブハウスのオーナーさん、スタッフさん、お客さん、SNSでのつながり等)と交わることで自然に見えて来ます。昭和の時代から頑として変わらないものもあるが、その一方で、容易に流行に左右されやすい部分もあることに気付くと思います。
そんな状況ですから、どうせなら愛好家の皆さんは、まずジャズという芸術に純粋な感性で触れていただきたい。そして『ジャズっぽさ』よりもその本質である『ジャズそのもの』に近づいて行ってほしいのです。そうした結果、偶然でも「○○さんの歌って、なんか『ジャズ』だね!」って言われたら嬉しいですよね。そんな風に言われたらすかさず「(私の歌ってきた歌が)たまたまそうなっただけだから。」と、いつかマイルス・デイヴィスが言ってたようなセリフでカッコよく返してください(笑)
私は個人的には、ちあきなおみの歌にすごくジャズを感じるんですが、どうですかね?少なくとも彼女は自分の歌をジャズとして歌ってはいなかったと思いますが。
2013年6月24日 鈴木智香子 拝