ジャズボーカルって何?⑨ スタンダード音楽とは?

こんにちは!鈴木智香子です。

このテーマのコラムを書き始めて8年くらい経ってます。本当にとんでもないテーマに手を出してしまいました(汗)…いつまで続くかわかりませんが、忘れないうちにこの辺で文章としてまとめてみようと思っとります。

今回は、私達演奏者が主に演奏の素材として用いている1920年代から1960年代までのいわゆる『スタンダード曲』について書いてみたいと思います。この時点では、ジャズと切り離してお話させていただきます。

 

スタンダードの本場・故郷であるアメリカと、たかだか7、80年くらい前に戦後の進駐軍と一緒に急速にエンターテイメントとして浸透してきた日本とでは、そもそも馴染み方が違う!じゃあ、日本ではこのスタンダード曲をどう捉えて演奏したら良いんだろう?そして、昔はともかく、今の時代にスタンダード曲を演奏する意味とは?という問題をここのところずっと考えていました。

米国ではスタンダード曲は『タイムレスな懐メロ』なんです。

後にスタンダード曲となる楽曲が、主にミュージカルや映画といったエンターテイメントから生まれ、アメリカでは数多くのスタンダード曲が生まれました。しかし、そもそもそこに住む米国人にとって『スタンダード』な音楽って何?という視点を忘れていました。

 

少なくとも20世紀辺りから曽祖父母が米国に住んでいたのであれば、スタンダード音楽は、観に行った映画館、ラジオ番組、家族で観たテレビに、レコードに、エレベーターのBGMに、誰かが歌っていた鼻歌にと、タイトルまでは知らなくても生活の中に刷り込まれるように存在していたものだと思います。そしてそれらはその時代を生きた人々の思い出やノスタルジーと常にセットです。他国からの移民であれば、歌から言葉を学んだ人々もいたことでしょう。フランク・シナトラの歌う歌が多くの支持を得たのは、シナトラの明解で洗練された英語の発音のお陰という話もあります。

 

しかし、私たち日本人にとってはどうでしょうか?例えば親が駐米大使とか、アメリカ滞在歴が日本より長いとか、特殊な環境で育っていない限り、日本人にとってスタンダードミュージックは生活に深く根差した音楽ではない、つまり日本人にとってはスタンダードじゃないのです。

アップル社のCMにもスタンダード曲が!

ここで、どれだけスタンダード曲が米国で今の時代でも普段の生活になじみのあるものかのひとつの例として、2014年クリスマスシーズンのアップル社の無料アプリ『ガレージバンド』のCMをご覧いただきたいと思います。字幕はありませんが大体のストーリーの流れは掴めると思います。じわっと来る良いCMです。

いかがでしょうか?

このコマーシャルで分かることはまず、スタンダードの1曲である『(Our) love is here to stay』をお婆ちゃんと孫が共有できているということです。たとえ若い世代にヒット曲として知られていなくても、この曲が孫の心のどこかに響いて、若き日のお婆ちゃんの歌声を最新のアプリを使って音声加工し、お婆ちゃんを驚かせる。タイムレスな魅力を持ったスタンダード曲が、超メジャーな企業の商品をPRする為の素材の一つに起用されたのですね。

 

お爺ちゃんが従軍していた朝鮮戦争当時も(レコードに手書きで1952年とありますので)この曲を当時お婆ちゃん達の若い世代がどこか身近な所で常に耳にしていて(楽譜なしで)歌うことができたことも推察されます。

 

更に、このコマーシャルフィルムを見て分かる通り、当時からスタンダード音楽が『人種』を越えて聴かれていた、と言えると思います。

 

この曲は1937年に出版、ミュージカルや映画の中で歌い継がれ、戦中戦後の世の中に浸透したと思われます。下の動画は1938年に初めてこの曲を歌ったとされているKenny Bakerの歌声です(註:ジャズバンドではありません)。ここから現在まで何と80年近い歳月が流れています!

(因みに私は遠い日本でこの曲を学生時代に観た映画『パリのアメリカ人(1951)』で知り、成人してから映画『恋人たちの予感(1989)』やTVドラマ『デス妻』のワンシーンで流れているのを耳にしました)

スタンダード音楽は日本人にはスタンダードではない。

日本で、スタンダード曲を用いてこれと同じ事がかつて起こり得た(これから起こり得る)でしょうか?もう、この曲が世に出て認知され、じわじわ人々の普段の生活に浸透していった年月の長さとその根っこの深さに、途方に暮れてしまいます。

 

そして、ただ憧れだけで何の根っこも無くこの曲を歌ってきて「ワタシ、いったい何やって来たんだろ?」って気持ちに襲われます。そもそも戦後に怒涛のように入ってきたこの音楽を、当時の日本のミュージシャンは進駐軍のバンドの演奏を見様見真似で懸命に取り入れてきたんですけどね。

 

というわけで、日本で、今、特にネットのお陰で海外を急速に近くに感じることが出来るようになり、未知なものへの憧れを失いかけている時代に、このような時代掛かった音楽を、何のノスタルジーも歳月という土台も持っていない今の演奏者や歌手が、同じく何のノスタルジーも歳月という土台も持っていない今の聴衆に向かって『ただカッコイイしオシャレだから』という理由でスタンダードの演奏を聴いてもらうことが、どれだけ表面的で軽薄なことか。と考え始めると泣けてきますねぇ。セルフネガティブキャンペーンですよ~もう。

だから『ジャズ』という演奏スタイルが必要なんだ!

じゃあ、所詮スタンダード音楽は本当のところ日本人には心の奥底に響かないのでしょうか?これからもどこかにそんなわだかまりを持ちながら、この事実を見ないふりをして演奏したり歌ったりしていくのでしょうか?確かに『リンゴ追分』や『いい日旅立ち』を演奏した方が、手っ取り早く感動してもらえるのかもしれません。

 

そんな思案を繰り返した末、だからこそ『ジャズ(という演奏スタイル)』が必要なんだ!と最近考えるようになりました。
つまり、スタンダード曲を『(形骸化はしているが)普遍的な素材』と捉え、それを『ジャズという演奏スタイル』を用いて演奏するからこそ、私達は現代でもスタンダードを歌ったり演奏できるし、世界中のどこでも誰でも誰とでもセッションでスタンダード曲を演奏できてきたのではないだろうか、と気づいたのです。

 

次回に続きます。

 

【まとめ】
アメリカのスタンダード曲を演奏する時のジャズ演奏は、聴く側がその曲を『既に知っている』ことを前提としているので、曲を知っている(何度も聴いた記憶がある)からこそ、少し変わったアレンジやテンポやリズムの演奏、色々なタイプの歌手の違った歌いまわしを聴いても面白いと思って聴ける。
そうなると、戦後の日本はともかく、その前提がない現在の日本で聴いてもらうのは難しいよね。

2020年9月20日 鈴木智香子 拝