ジャズボーカリスト名鑑 ジューン・クリスティ

3大白人女性ボーカルの一人。ジューン・クリスティ(1925-1990)

個人的には、夏の季節になると、彼女の歌う『Something Cool』を思い出します。直訳すると、ずばり『何か冷たい飲み物』

 

夏の都会を舞台にした歌の内容に、彼女の洗練されたハスキーな声、そしてピート・ルゴロのクールで緻密なアレンジのマリアージュ(?)が、ジャズもニューオリンズからニューヨークまで、ずいぶん遠くへきたもんだなぁ、と私まで遠い目になっちゃうくらい、エレガンス満載な世界を創り出している!!と思わず意気込んでしまうほどカッコイイので、既にご存じの方も、初めて聴く方にもここで改めて聴いていただきたいのです。

 

左の動画がアルバムに収録されているバージョン。当時このアルバムが売れに売れたので、数年後に同じメンバーでリメイク版を作ったくらいです。

 

 

次の動画はアメリカのテレビ番組に出演した時のワンシーン。ピアノ伴奏で歌うバージョン。バーカウンターで冷たい飲み物を注文している演技をしていますね。 

 


ジューンがなぜ3大白人女性ジャズボーカリストの一人かというと、うーん、私自身もその根拠は良く分からないのです。しかし、取りあえずスタン・ケントン楽団の歴代の看板金髪美人ボーカルの一人で、彼女達の歌のスタイルがその後の白人女性ジャズボーカルの指針となるくらい影響力があった、ということでしょうかね?

 

スタン・ケントン楽団がどれほど凄いバンドだったかはウィキペディアなどでにわかに仕込んで無理矢理納得することにして(笑)、とにかく先代の専属歌手のアニタ・オデイ、クリス・コナーなど、脱退後にピン歌手として活躍した、という、まあ歌手達にとっては輝かしいキャリアの為の登竜門みたいなバンドだったようです。  

 

アニタ、クリス、ジューンの歌声を聴き比べてみますと、スタン・ケントンの好みもあったかと思いますが、彼女達のモダンで洗練された歌声が自分のバンドのスタイルにフィットしたのは間違いないと思います。そして実際、後に出てきた様々なジャズボ―カル曲を聴くと、多くの女性歌手がそれに倣ったようにも感じられます。

都会を思わせる洗練された歌声。しかし最初からイケてたわけじゃない(笑)。

私、鈴木智香子は、こちらのブログでお勧めしている通り、かつてジャズボーカルのお勉強の一環として、彼女の初期のアルバムから晩年に至るまでの映像(当時はVHS)を買い求めて聴いてみたことがあります。

 

ジューン・クリスティがどうやって『サムシング・クール』のジューン・クリスティになっていったのか?

を探ってみたい、と思ったのです。

 

下の動画が1947年頃、初期のジューンの歌声ですが、7年後のソロデビュー盤『サムシング・クール』がある程度の完成形だとすると、片鱗は見られるけれどもお世辞にもあんまりイケてない。当時の他の歌手などを並行して聴いてみると、丁度この手のスタイルが流行だったのか、同じ様な歌い方をしている歌手がいっぱいいました。 

実際、ジューン・クリスティという芸名をスタン・ケントンに付けてもらって楽団デビューする前は『シャロン・レズリー』という冴えない芸名で鳴かず飛ばずの歌手生活を送っていたそうです。

 

ジューンもかつては、当時たくさんあったジャズバンド専属の、マスコット的な女性シンガー、というポジションに甘んじていた大勢の歌手の中の一人だったと考えられます。もし彼女のキャリアがここで終わっていたら、私達の知っているジューン・クリスティは存在しなかったかもしれません。

 

歌も、日本人の私が言うのもなんですが、リズムにのってはいるが、ちょっと雑なように聴こえます。

 

当時はまだ演奏=ホールでのダンス用として需要が大きかった時代だから、ノリが第一で、ボーカル曲は今のようにパーソナルな感情をそれぞれのやり方で繊細に表現するものではなかったからかもしれません(そうだとすると、やはりビリー・ホリデイの功績は計り知れないものがありますね)。

 

それが、下右の動画のスタン・ケントン楽団でヒット曲に恵まれ、その後ソロデビューアルバムで『サムシング・クール』として花開いたということは、やはりスタン・ケントン楽団に在籍した経験がジューンのスタイルを形成する大きな助けになったのだと思います。

 

そういう意味では、若きフランク・シナトラとハリー・ジェームス楽団/トミー・ドーシー楽団、若きエラ・フィッツジェラルドとチック・ウェブ楽団、という前例があるように、ジューンも『駆け出し時代には、ビッグバンドで研鑽を積む』という道を図らずも進んだといえます。 

ジューンの楽団での代表的ヒットとなった『タンピコ』。いちおうアメリカ人からみたメキシコ、つまりラテンの雰囲気を演奏や衣裳で表しているが…。

ジューン・クリスティの歌唱は『力技』…喉を酷使する歌い方だった?(考察)

彼女の歌声は、映像を見て改めて判明したのですが、口を大きく開けて絶唱するタイプの歌い方をしています。

 

ゆったりしたバラードではとてもダイナミックにゴージャスに聴こえますが、一方で軽くスイングする曲を歌うと機敏さに欠け、ビートに乗り切れず少し重たいと感じるときがあります。また、小柄な身体からは想像できませんが、声のボリュームも相当大きかったのではないかと思われます。

 

ジューンは、ウィキペディアによると、後年、アルコール中毒も相まって、加齢と共に喉の消耗が急速に進んでいき、60年の半ばには引退状態に入り、77年のラストレコーディングでは、かわいそうに評論家からは『往時の精彩はなかった』などと書かれています。

 

ここで私は、歌い手としての視点から、どうしても同じスタン・ケントン楽団出身の歌手でありながら、83歳まで歌い続けることができたアニタ・オデイ、75歳でレコーディングをしたクリス・コナーと比較してしまいます。

 

YouTube画像を検索してみると、ジューンは『サムシング・クール』の大ヒットのお陰か、この二人と違ってテレビの歌番組等に出演する機会に恵まれ、多くの動画が残されています。

 

なので、エラ・フィッツジェラルドと同様に、ジャズとは言いながらもポピュラー音楽寄りの、レコーディングしたクオリティに近い疵のない作品を提供することを求められていた歌手だと思われます(多分、ギャラも他の2人と比べて高かった思う)。

 

そういう歌手にとって歌声が衰えるということは、歌手生命の危機を意味します。そして、やはりジューンの歌手生命も生涯も、この3人のうちで一番短かったのです。

 

アニタやクリスは、二人ともそれぞれアルコールやドラッグなど、喉をダメにすることをやりからかしてますが、それでも曲がりなりにも現役歌手としての長いキャリアを保つことができました。

 

それは、過去の実績に囚われず、喉に負担を掛けない歌唱法=今の自分の身の丈に合った歌い方にシフトしていったからだと推察します。そして、最盛期を過ぎても年齢相応の歌を聴いてもらえる、いわゆる『味キャラ』として生き残ることを選んだのですね。

 

彼女の歌声に憧れる人は多くいますが、これからジャズボーカルの趣味を楽しみたい、と思っておられる方にはこの力技(ちからわざ)に頼る歌唱法はあまりお勧めできないな、という結論に達しました。

ジューンの歌の変遷を動画で見てみる。

上の動画2種に引き続き、ジューン・クリスティの歌の変遷を見ていきましょう。

彼女の場合、他の歌手達と比べても、目で見て確かめることができる第一級の資料が満載なので、この機会に是非ご覧いただきたいと思います。

 

まず上段の50年代の映像、そして中段は60年代の中年になってからの映像、最後に下段は77年のラストレコーディングの音源と、72年のテレビ出演の映像がアップされていました。

 

まるで6月(JUNE)のように爽やかな若い頃の歌声が、60年代にはパンチの効いたどっこい系(?)になり、その踏ん張りが効かなくなった70年代は、声の衰えに反比例して歌に深みが出てきているように感じましたが、皆さんはどんな感想を持ったでしょうか?

 

こうやって年代順に一人の歌手の変遷を見ていくことは、同時に一人の人間の人生の栄枯盛衰&深まりを見ることになり、さらに理解が深まると思います。