【ジャズボーカルちょっとトーク】『ララバイ・オブ・バードランド』、『サテン・ドール』、『ムーンライト・セレナーデ』…これらの曲の共通点は?

インストゥルメンタル曲

 『ララバイ・オブ・バードランド』、『サテン・ドール』、『A列車で行こう』、『ムーンライト・セレナーデ』、『シャイニー・ストッキング』、『ウィスパー・ノット』…ジャズボーカリストが普段レパートリーにしているような、有名なジャズスタンダード曲の中でも、これらの曲にはある共通点があります。それは何でしょう?

 

それは、いずれの曲も、もともとは歌詞を持たないインストゥルメンタル曲であった、ということです。 そしてもう一つ、作曲者を見てみると、ジョージ・シアリング、デューク・エリントン(どちらもピアニスト)、グレン・ミラー(トロンボーン奏者)、カウント・ベイシー楽団のフランク・フォスター、そしてベニー・ゴルソン等(両者ともテナーサックス奏者)、いずれも作曲者は有名なジャズミュージシャン達です。 ジャズミュージシャンは優れた作曲家でもあったのですね。

 

歌詞は先?後?

アメリカンスタンダード曲が大量に生み出されていた1930年から40年代当時、それらを生み出す温床となったミュージカルや映画の挿入歌や流行歌は、作詞者が先に歌詞を作ってから作曲者が歌詞にメロディーをつけていくという過程を経て世に出されることが多かったようです(コール・ポーターのように作詞・作曲を1人でこなす人もいました)。

 

しかし、上に挙げた曲達は、元々はジャズオーケストラ(ビッグバンド)がダンスホールで演奏するレパートリーの中の1曲であったり、特定の楽器奏者がコンボ(小編成のバンド)でジャズクラブ等で演奏、レコーディングしたりという、観賞用の作品として世に出た後、暫くしてから歌詞がつけられた、という逆の経過をたどったものです。

 

多分、曲を聴いた歌手達が「この曲カッコイイから是非歌詞をつけて歌いたい」とか、関係者が「この曲に歌詞つけて歌手に歌わせたら更に売れそう」などの思惑で、無理矢理に歌詞をつけたものもあったのではないか、と思われます(笑)

 

また、アメリカンスタンダード曲は、リズムやアレンジを変えたものを様々なシチュエーションで耳にすることがありますが、上に挙げたようなジャズミュージシャンが作曲した曲は、やはりジャズ以外のスタイルで演奏されることは殆どありません(たまにラテンのリズムで演奏されたものを聴いたことがある程度です)。

 

 

つまりこれらは、ジャズミュージシャンによるジャズミュージシャン(一応、ボーカリストも含む)の為の曲なのです。

ジャズミュージシャンが作った曲に後で歌詞が付けられた曲

さて、ここからは私、鈴木智香子個人の感覚ではあるのですが、そのようなジャズミュージシャンの曲に後付で歌詞が付いた作品は、曲の譜割りの制限の中で言葉を選ばなければならない為か、歌詞から先に出来た曲に比べると、詩の内容(詩の持つ世界観、その密度や深淵さ)に関してやや浅いものになっているように思われます。(もちろんそのような制約があるにも関わらず、後付けでも秀逸な歌詞が付いたものも中には存在していますが)。

 

『ララバイ・オブ・バードランド』の歌詞を例にとってみても、素晴らしいメロディーの出来と裏腹に、歌詞の内容に脈絡がなさすぎて、歌ったりレッスンする度に気持ちが入らず、未だに困惑することがあります。 日本語の対訳を見つけて読んでみてください。キツネにつままれた気分になること間違いなしです。

更に『サテン・ドール』は高級娼婦をテーマにした歌(と、聞いています)、『シャイニー・ストッキングス』はストッキングフェチな男が目の前にいる彼女を差し置いて他の女性のストッキングに心奪われる歌です。 それ歌詞にしちゃう?というような内容なのです。

 

しかしその一方で、そういった曲は大抵、歌詞の内容よりも歌詞を構成する英語の響きが作る語呂や耳触りの良さ、つまり『洒落(しゃれ)』や『ノリ』の部分を重視している傾向があります。

 

 

ということは、残念ながら日本語に訳された時点で、英語独特の語呂の良さや、韻を踏んでいるといった『洒落』や『ノリ』の部分は消滅してしまうということなのですね。

ボーカリストはどう歌う?

このような性質を持った、もともとがダンス用の曲や、ジャズミュージシャンの為に作られた『歌詞がなくても十分聴き手を楽しませることができていた曲』に対して、果たしてジャズボーカリストはどのようにアプローチしていけばよいのでしょうか? これは、常にジャズボーカリストが考えるべき課題だと思うのです。

こういった性質の曲を、普通のジャズスタンダード曲と同じように詩の世界を拠り所にして歌ってしまうと、ジャズミュージシャンが作ったジャズ特有のリズムやメロディーラインが損なわれ、結果的に曲そのものの魅力や個性が失われてしまうことがあります。

 

また別の言い方をすれば、『メロディーだけで完全無欠』だった曲の中に、ボーカリストが自分の生身の声と歌詞というツールを用いて、本人の感情や意向を盛り込む行為は、暴挙となる恐れがあると思うのです。

 

自戒の念を込めて申し上げますが、かく言う私も、嘗ては主人のテナーサックス奏者、鈴木学をはじめとするジャズミュージシャンの皆様に「歌い過ぎてて暑苦しい(ボーカリストはいつもコレだからなぁ)」、「本来、曲はそんな曲じゃない」、「(ジャズは)歌じゃなくてまず曲なんだよ(だから何でも『歌』って言うな、ソロを『間奏』って言うな)」などと指摘されたのは一度や二度じゃありません。

 

なのでレッスンにおいては、このような曲を歌う場合は、『歌詞よりもメロディーやリズムを重視』『有機的ではなく無機的に』『声が歌うのではなく楽器が歌うように』『エモーショナルにではなく、クールに』とアドバイスしています。

 

そして、これは私、ボーカリストとしての鈴木智香子の願望が半分入っているのですが、『人の声がストイックに制限的に歌うからこそ、楽器にはない別の個性が出』て、逆説的に歌い手の個性が際立ったり、その曲の別の魅力を引き出せるのではないかと、信じています。 

 

Vocal Jazz(声を使ったジャズ)

 

そもそも、ジャズボーカルの正確な呼称は『Vocal Jazz(声のジャズ)』(Vocalは形容詞)、ジャズの楽器奏者(歌詞を持たない)がやっていることを声(歌詞付き)でやってみる、というジャンルなのですから、ジャズ本来の性質を忘れなければ自ずとアプローチの方法は見えてくるはずです。

 

下の動画は、デューク・エリントン楽団のレパートリー『サテン・ドール』です。どうです、このゴージャスなサウンド!心躍るメロディー! プレイヤーの素晴らしい演奏のお陰で、前に歌手が立っていなくても、歌詞が付いていなくても十分楽しめます。

 

 

2014年12月28日 記す